当倶楽部の歴史

響灘に囲まれた松林一色の白浜。かつて海であったこの場所は、およそ千年前に土地が盛り上がり八ヶ浜となった。ここに中部利三郎の手により下関ゴルフ倶楽 部が創設されたのは、第 2 次世界大戦が終わってからおよそ 10 年、日本が敗戦からようやく立ち直り、高度経済成長期へと向かい始めた 1956 年のことであった。
  潮騒の音と松林のざわめき、そして響灘より吹く風によって形成される、落ち着いた静寂。しかしながら、ゴルファーがそこに立てば途端に牙をむく、脅威の存 在となる。そんな "静" と "動" が共存する空間。さらにそこには、コース設計者上田治の信念をも宿す。この本格的なゴルフ場は今日までの 50 年の間、利三郎の三男である伝説のアマゴルファー「中部銀次郎」を筆頭とする、数々の名ゴルファーを生みだした。また、そんなゴルファーたちによってこの 下関ゴルフ倶楽部も成長を続け、男達の幾度にも及ぶ新たな挑戦に立ちはだかってきたのだ。
  下関ゴルフ倶楽部は、創設から一年を経て社団法人となる。利三郎の長男である中部一次郎が日本アマ選手権を初めて制したのは、さらにその翌々年の 1959 年のことであった。翌 1960 年には日本ゴルフ協会 (JGA) に加盟。1961 年には、所属プロである細石憲二が日本オープン勝利の栄誉に輝く。下関ゴルフ倶楽部の名声は、こうして瞬く間に広がっていった。

 そして下関ゴルフ倶楽部といえば、やはり中部銀次郎の存在なくしては語れない。利三郎には一次郎、幸次郎、銀次郎と三人の息子がいたが、いずれも下関ゴ ルフ倶楽部で腕を磨き、トップアマへと成長している。中でも三男である銀次郎は、1962 年に最初の日本アマ選手権を獲得すると、1978 年までに、実に 6 度のアマ日本一に輝く。
"中部三兄弟が腕を磨いたゴルフ場"
 これは他では決して得ることのできないステイタスであった。ここから下関ゴルフ倶楽部はメンバー数も年々漸増して 1966 年には 826 となり、また総入場者数も、年間 5 万人を超えることが多くなり隆盛期を迎える。

  それから 20 年、日本はバブル景気を迎えゴルファー人口は激増する。ひと足先に隆盛期を迎えていた下関ゴルフ倶楽部もまた、さらなる成長を続けることとなる。そして日 本が再びゴルフブームに湧いていた 1991 年、下関ゴルフ倶楽部は、日本オープンの開催地としての指名を初めて受ける。真の日本一ゴルファーを決定するトーナメントを行うにふさわしいゴルフ場とし て、世間にも認知されたということだ。そして 2002 年には早くも 2 度目の日本オープンを開催。下関ゴルフ倶楽部はこの 50 年の間、こうして一歩ずつ着実に日本ゴルフの歴史に名を刻んできた。

 人類創世記からの長い歴史に比べれば、半世紀とはいえ一瞬の出来事にしか過ぎない。しかし、1000 年前に八ヶ浜が形成されたことが偶然の出来事ではなく、日本に名だたるこの名門ゴルフ倶楽部をつくるためであったとしたら…。わずか 50 年では語れない、壮大な歴史を下関ゴルフ倶楽部はもつことになる。
 

[「一般社団法人 下関ゴルフ倶楽部50年史」より]