名手を育てた日本屈指のシーサイドコース

文: 西澤 忠(ゴルフ・ジャーナリスト)

昭和 31 年に 9 ホールで開場、4 年後に 18 ホールとなって以来、日本を代表するシーサイドコースとして知られる『下関ゴルフ倶楽部』。
設計者は上田治。数ある作品の中でも屈指の名作と謳われている。
アマチュアの名手、中部銀次郎を育てたことでも名高い難コースに、その歴史を訪ねた。



予定地変更の狙い
 昭和 31 年 (1956) 7 月 22 日に 9 ホールで発足した下関ゴルフ倶楽部はすでに半世紀以上の年輪を刻み、初代理事長の中部利三郎 (大洋漁業) のリーダーシップのもとアマチュア名手の中部一次郎・銀次郎・細石憲二プロなどの名選手を輩出。また、過去 2 回の日本オープン選手権開催も果たした、山口県随一の名門として知られている。
 関門海峡の西側入口、下関の響灘に沿う八ヶ浜という室津湾の入り江は砂と松林だけの理想的なリンクス地形で、昭和 35 年に 18 ホールになって以来、日本的シーサイドコースとして上田治設計屈指の名作と謳われている。海風と松の織りなす天然のハザードがコースの持つ戦略性に強い陰影を与えているからである。
 しかし、クラブ創設にあたって、この地にコースを立ち上げる経過には紆余曲折があったらしい。
 関門海峡を挟んだ九州・門司には 9 ホールながら戦前から門司ゴルフ倶楽部があり、「なんとか下関にもゴルフ場を」という願いから地元有志が選んだコース予定地は川棚温泉駅の北にある石堂山麓だった。海を遠望する小高い岩山の裾野に 3 ホールのコースを造成したのが昭和 28 年。しかし、素人集団のコース造りに危惧を感じたところから、専門家のコース設計家として呼ばれたのが上田治である。というのも、下関のゴルファーは門司のコースで育っている。その 9 ホールを昭和 9 年に設計したのが上田だったからだ。又、門司のクラブ創設に発起人として名を連ねていたのが中部利三郎だった縁もあり、上田に白羽の矢が立ったものと思われる。
 初めて現地を訪れて、二万五千分の一の測量図を見た上田が「ここですか ? 」と指さした予定地が今の八ヶ浜地区で、「いえ、もっと北の石堂山です」というと首を振って、「石切り山では駄目、ぜひ八ヶ浜を見たい」と二度目の訪問で、予定地が変更されたというのである。
(『下関の十年』 <10 年の経過を語る > 座談会より)

 上田治といえば <東の井上、西の上田> と称された戦前・戦後の名匠だが、井上誠一が霞ヶ関 GC 出身なら上田が廣野 GC 出身だからであろう。英国人設計家、C ・ H ・アリソンの図面をもとに廣野 GC 造成に参加したのが京大農学部を卒業直後の昭和 7 年で、彼は 25 歳。その後、グリーンキーパーとして廣野の嘱託となる。そして高畑誠一 (日商岩井)、伊藤長蔵 (日本ゴルフドム主幹)にゴルフを学び、アリソンの図面に触れて設計への野心を掻き立てられていく。だから、門司 GC の 9 ホール設計に呼ばれた上田はアリソン式の図面を仕上げており、バランスの良いホール配置は一級品との評価を得た。
 昭和 10 年に開場した門司 GC は < ゴルフ亡国論者 > からの転身ゴルファーとして有名な出光佐三(出光興産創業者) が理事長で、上田に設計を依頼するについてこんなエピソードを語っている。
 「廣野の高畑誠一君がぼくと学校 (神戸高商、後の神戸大) の同期だった関係で、彼に頼んで上田治君にここへ来てもらった。廣野じゃ上田君をよそに貸すのはうるさかったらしく、工事中に高畑君がここへやって来て、< 内緒にしてくれよな > といってましたがね」(『 50 年松ヶ江』会報より)
 とはいえ、当時の上田はすでに設計家の道を歩き出していた。昭和 11 年開場の信太山 GC(大阪府泉北郡、19 年に閉鎖)、13 年開場の大阪 GC 淡輪 (大阪府泉南郡) などの設計作業中だったと推測されるからである。
 設計家としてはもっと決定的な転機がある。昭和 11 年開催のベルリンオリンピックに、茨木中学から松山高校時代に背泳の有名選手だった上田は競技審判員として渡欧するのだが、その後 5 ヶ月をかけて英米の名門 30 コース余りを観察したことだった。主たる目的は西洋芝の研究だが、セントアンドリュースからパインバレーまで世界に名高いコースを巡礼して設計家としての基礎を築いたのだ。
 戦後になって下関 GC のコース予定地をリンクスコースが可能になる場所に変更を願った段階で、彼のイメージの中にはセントアンドリュースやカーヌスティ GC 、セントジョージス GC に匹敵するシーサイドリンクスの姿が浮かんでいたことだろう。世界一の名コース、パインバレー GC も G ・クランプがリンクス地形を求めて砂地と松林の丘陵に設計したことを上田は知っていたはずだからである。

この親にしてこの子あり !
 石堂山にクラブを創設した昭和 27 年当時は川棚温泉 GC だったが、中部利三郎理事長のもと、下関 GC と名称変更になった 9 ホールのコースが正式に開場したのは 4 年後。現在の 9 番ティー後方にハウスを置き、海へ向かって打ち下ろす 1 番ホールがいまの 9 番。2 番が海沿いに走る 10 番、内陸に 4 ホールを辿って 8 番でいまの 1 番ホールに至るルートだった。これは将来的に 18 ホールへ
 拡張する意図を持って設計した上田と中部理事長の慧眼だったはずである。というのは 18 ホールを目指すことを念頭に 9 ホールを配置したからで、樹齢豊かな松を伐採するにも、将来を見通したホール配置が必要だからである。
 戦前の昭和 11 年頃からゴルフを始め、門司 GC で修業を積んだ中部理事長は、戦後には実家が兵庫県明石市だった関係から、廣野 GC の会員でもあり、当時のハンディ 6 を保持していたという。
 したがって、上田の設計プランに物申す立場にもあり、「もしも大洋漁業をクビになったらゴルフ場の設計で飯を食うよ」(『氷山点々』より) と冗談を言うほどだったらしい。
 明治 34 年、明石に生まれた中部利三郎は大洋漁業の創業者、幾次郎の三男で、大正 13 年に神戸高商卒後、1 年 4 ヶ月の軍隊生活を見習い士官で退役。大洋漁業で捕鯨の世界に入っている。
 そして昭和 11 年、人生の大きな転機に立つのだから、上田の欧米名コース視察と機を同じくする巡りあわせに驚く。
 この年、大洋漁業は初めて南氷洋捕鯨に乗り出す。当時 35 歳で、捕鯨の知識などない利三郎は捕鯨船団に乗り込み、鯨油を輸出する船で渡欧するつもりだった。しかし、西オーストラリアの海上で船団長が急死、やむなく < 中部家の三男坊 > が船団長を任命される。470 名の乗組員を母船・日新丸甲板に集めて、南氷洋行きを悲壮な決意で決断するシーンが感動的なのだ。
 「こんな頼りのない奴につれて行かれたら、漁はできない。そればかりか命も危ないと思うかもしれない。だからよく考えて、行くか行かぬかは自分自分で決めてほしい。< 中略 > もし残った人々が操業可能の人数であれば、私は南氷洋へ行く」(『氷山点々』より)

 日本の水産界の名誉を賭け、しかも乗組員の自主性を重んじた決断に、純朴な海の男たちは全員出漁を決心する。その結果、第一次捕鯨は大成功したという。その陰にあった南氷洋海域を調査して海図を作成するという科学的探究心も見逃せない。この現実認識、勇気と決断に、後のアマチュア名手となる利三郎の三男、銀次郎のゴルフ振りが重なるのである。まさに、「この親にして、この子あり」と誰しもが思うのは当然だ。父親を尊敬する銀次郎は日本アマのタイトルを獲ると「父が喜ぶので、苦しい練習をして勝った」と述懐していたものである。
 そんなふたり、上田治と中部利三郎は昭和 35 年に下関 GC を 18 ホールに拡張した。大量の砂山を削り松林を開拓する作業中に、長靴姿で戦前の思い出話に花を咲かせたことだろう。また、ふたりの理想とする廣野 GC の戦略性に関しても話が及んだはずである。
 中部はその後、昭和 39 年に請われて長崎国際 GC(長崎県諫早市) の社長に就任、上田設計を完成させている。また、上田は昭和 33 年に九州最古の福岡 CC 大保 C の流れを汲む古賀 GC(福岡県) を 18 ホールに拡張する設計に関わり、34 年の若松 GC 、36 年の小倉 CC と上田の九州行脚は次々と続くのである。大阪茨木から山陽本線で何度となく関門海底トンネルを潜り抜けて福岡へ行き、帰りに下関へと足を運んだことだろう。

 つい先ごろ、久し振りに下関 GC を田口三朗キャプテンとラウンドした。エメラルド色をした海を右に見て進む 1 番ホールのフェアウェーを歩いていた時だった。
 「地形が右傾斜だから、フェアウェーへ落ちた球が右に流れるのは当然です。でも、起伏は上下にもあって、ローリングしているでしょう ? これは表土の下の砂が長年の間に動いて、自然に生まれたアンジュレーションなのです」と田口キャプテンが言うのだ。そういえば、スコットランドやアイルランドのリンクスでコースを管理する主たる仕事は、砂丘の崩壊を防ぐことだと聞いた。海風で一晩のうちにグリーンが海に落ちて消えるほどとか。そこまでとはいかないまでも、海辺のコースは砂質で、芝を張った地下でも微妙に動くのだろう。
 「フェアウェーやグリーンの傾斜も昔とは違っているはずです」との田口キャプテンの言葉に、まさに < コースは生きている > と思わされた。
 ことのついでに尋ねてみた。「高麗芝 2 グリーンの改造予定は ? 」と。
 「いずれ将来的にワン・グリーン化するとしても、サイズが平均 400 平方メートルと小さいので、いまのところ高麗芝のままで行こうかと考えています」と言う。
 風の強いシーサイド林間コースで、小さいグリーンとアリソン式バンカー。この戦略的コースで修業した中部一次郎・銀次郎兄弟がふたりで日本アマ選手権 7 回優勝を果たしたことも納得がいく。
 そして、数ある上田設計コースの中で、オリジナルデザインを頑なに守り続ける <下関魂> に敬意を表したいと思った。

<参考文献>
『下関の十年』、『下関ゴルフ倶楽部 50 年史』、『氷山点々』中部利三郎氏・魚の思い出 (みなと新聞社編)、『 50 年松ヶ江』 (門司ゴルフ倶楽部)、『長崎国際ゴルフ倶楽部二十年史』、『日本ゴルフ 60 年史』 (摂津茂和著)、『日本ゴルフ協会七十年史』
※日経 BP 社が発行しています「ウィアー・ゴルファーズ Vol.22」内の記事を許可をいただき、転載しております。

会報「八ヶ浜」 200 号特別掲載より